講社とは?

歴 史

講社前史

宗祖親鸞聖人の「御消息」に「護念坊のたよりに、教忍御坊より銭二百文、御こころざしのものたまはりて候ふ。さきに念仏のすすめのもの、かたがたの御中よりとて、たしかにたまはりて候ひき。ひとびとによろこび申させたまふべく候ふ。この御返事にて、おなじ御こころに申させたまふべく候ふ」(『浄土真宗聖典(註釈版)』804頁)

とありますが、宗祖当時、ご法義を喜ぶお同行が、法然聖人のご命日二十五日には、道場に集まって共に念仏して、一味の安心に住し、互いに相親しんで、みんなが「念仏のすすめもの」といって、報謝の懇志を醵出して、宗祖に送ったり、法要行事を営んでいたのです。

宗祖ご往生の後には、『破邪顕正抄』下に、「念仏勤行の日」とか「念仏勤修の日は、一道場の分、大旨は一月に一度なり」とありますように、各地のお同行は、月一回、「念仏勤行の日」をきめて、ご法義を鑽仰し、愛山護法の懇念を祖山に運んで下さったのです。ここには、講社の懇志は「念仏のすすめもの」であるという宗祖のお心の伝統が生きていました。

わが宗門において、講といわれるものは、宗祖親鸞聖人の祥月命日の「報恩講」が最初です。報恩講については、覚如上人が『報恩講私記』(報恩講式)というお聖教を撰述されました。

「報恩講式」には、真宗興行の徳を讃じ、本願相応の徳を嘆じ、滅後利益の徳を述し、聖人の遺弟である末代の僧俗は、念仏往生のご法義を相続し、聖人の祖廟にぬかづき、御真影さまを仰ぎ、お聖教を拝読し、ご法義を弘めていこうという、愛山護法の精神が示されています。

蓮如上人と講社

宗門に講社が本格的にあらわれてくるのは、第八代、蓮如上人の時代からです。

蓮如上人は、文明18年(1486)正月4日に、加賀国能美郡の四講に対し、
「そもそも、能美の郡司行中に仏法について四講という事を始めて当流の法義の是非邪正を讃嘆すべく興行これ在る由聞き候。誠に以って、仏法興隆の根元、往生浄土の支度、殊勝に覚え候」
という「御文章」を送っておられます。四講は「毎年約束の代物」(蓮如請取の御書)を蓮如上人に送られ、それが、本願寺の経済を支えていたのです。

講とは仏法興隆の根元、往生浄土の支度であるという「御文章」に、講とはなにかが極端に示されております。

蓮如上人の頃は、講は、毎月25日(法然聖人)のご命日と28日(新暦16日・宗祖親鸞聖人のご命日)の両度に行われていました。明応7年2月25日の「御文章」(『浄土真宗聖典』(註釈版)1183頁)に「そもそも毎月両度の寄合の由来はなにのためぞといふに、さらに他のことにあらず。自身の往生極楽の信心獲得のためなるがゆゑなり」と示されておりますが、ここには蓮如上人が、講社に何を願っておられたかがうかがわれます。

このように、蓮如上人は、講社とは仏法興隆の根元、往生浄土の支度であり、一人ひとりが信心の行者になってほしいと願われ、さらに「御文章」(『浄土真宗聖典』(註釈版)1178頁)(文明17年12月23日)に「信心決定のひとも、細々に同行に会合のときは、あひたがひに信心の沙汰あらば、これすなはち真宗繁昌の根元なり」とお示しになっております。この蓮如上人の願いに呼応した門信徒の報謝力によって、各地に講社が結成され、本願寺は盤石の基礎が築かれ、今日に至るまでの宗門繁盛の基になることができたのです。

このように、講社によって宗門の護持発展が願われた蓮如上人の講社のこころに立ち帰り、二十一世紀の愛山護法の講社へと脱皮をはかり、講社のイノベーション(変革)をなしとげたいものです。

蓮如上人がご苦労なされた十五世紀は、日本史を二分する大変革期であり、下克上、応仁の大乱、荘園制度の崩壊期にあたり、従来の政治、経済、道徳、価値観がことごとく崩壊し、史上稀に見る大混乱期でありました。

その中において、「信心正因称名報恩」をかかげ、人びとにご法義を伝え、国中の悩める人びとを救いとげられた方こそ、わが宗門の中祖大師、蓮如上人にほかなりません。

上人ご往生後、今、世は乱れに乱れ、人びと、その帰するところを知らず、人心麻の如しです。いまぞ、仏法再興の好機です。われわれ講社講員一同は、講社先人の懇念に思いをいたし、愛山護法の報謝力を結集し、子々孫々にわたってご法義が相続されますよう出来る限りの報謝行につとめたいものであります。

第8代宗主 蓮如上人

第8代宗主 蓮如上人
(1415-1499)
存如宗主の長男。四十三歳で継職され、近江等の教化で爆発的に教線が拡大した。そのため大谷本願寺が破却されるが、吉崎の教化活動を経て山科に本願寺を再興された。「正信偈和讃」の開版や『御文章』の述作に努め、本願寺教団の基盤をつくられた。八十五歳でご示寂。

顕如上人と講社

蓮如上人以降、実如上人、証如上人、顕如上人と、時代を経るに従って、講の結成は増加していきました。

顕如上人の時代は、ご門主さまが顕如宗主四百回忌法要の「ご消息」に、
「浄土真宗は立教開宗以来、すでに七百六十余年の歳月を経ましたが その間にはさまざまな危機の時代がありました なかでも顕如上人のご在世は最もきびしい苦難の時代の一つでありました(中略)上人は金剛の信心にもえる宗祖聖人の遺弟ととに 身命をかけて祖像をまもり ついには大坂石山本願寺を後にして 紀伊鷺森 和泉貝塚 大坂天満へと移られ 天正十九年 京都の現在地に寺基を定められたのであります」
とお示し下さいました。顕如上人時代の講社先人は文字通り、身命をかえりみずして、本願寺を死守してくださいました。ですから、平成3年のご法要には殉難者総追悼法要がおつとまりになったのです。

顕如上人時代の講社の一面について『日葡辞典』(ポルトガル人のキリスト教宣教師が編纂した室町後期の辞典)には、「講とは、一向宗の宗徒が、その寺で何か宴会をするために催す集会」という説明がなされておりますが、宗門の存亡をかけた法難時代に、愛山護法の火の玉になっていた講社の会合が、宣教師から宴会とみえたのは愛敬ですが、このように講社は、辞書にまで取り上げられるまでになったのです。すなわち、顕如上人時代には、講社は、宗門を支える確固たる愛山護法の集団となっていたのです。

第11代宗主 顕如上人

第11代宗主 顕如上人
(1543~1592)
証如宗主の長男。大坂本願寺(石山本願寺)で得度し、十二歳で継職された。門跡となられ、織田信長との石山合戦は十年に及び、和睦によって紀州鷺森、和泉貝塚、摂津天満を経て、天正十九(一五九一)年、京都六条堀川に寺基を定められた。五十歳でご示寂。

江戸時代の講社

江戸時代は講社の全盛期です。江戸幕藩体制下の宗門を300年間、幾多の難題を解決し、日本最大の教団にした原動力は江戸時代の講社にあります。宗門の講社研究が十分なされていない現状なので、具体的なことは検証できませんが、断片的な資料や、伝聞のなかにうかがえることは、昔から宗門人がよく言う「本願寺は講社でもっていた」という言い方であります。

江戸時代の本願寺史をざっとながめてみても、財政的な点からだけでも、莫大なものになり、その中心を講社がになっていたとするならば、本山貧乏のイメージはふっとんでしまうでしょう。江戸時代の講社のご法義中心の生活は、当時の日本社会の政治・経済(商業・農林業・漁業・工業等)・文化・教育・倫理・宗教に何をもたらしたかの研究は、ほとんどなされていません。これらが明らかになれば、今まで見えなかったびっくりするような江戸時代の宗門や講社の姿が浮かびあがってくるでしょう。

准如上人と講社

准如上人時代(1592~1629)、本願寺は、京都移転後、五年の慶長元年(1596)7月13日の大地震により、両堂はもとより、諸堂がほとんど倒壊してしまいました。『言経卿記』には「去夜子刻大地震(中略)寺内ニハ門跡御堂・興門御堂等顛倒了、両所ニテ二三人死去、其外寺内家大略崩了、死人三百人ニ相了、全キ家一間モ無之」と、その惨状を伝えています。

また、東山大谷の宗祖の廟墳、本願寺旧縁の地も、知恩院の寺地拡張のため、今の五条坂の大谷本廟へうつさねばなりませんでした。(1603)
さらに大地震後20年かけて、諸堂を復興したのに、元和三年(1617)12月20日、御煤払いの夜、浴室から出火し、鐘楼・唐門を除いて、両堂はじめ、諸堂がことごとく焼失してしまったのです。

このように、准如上人時代の本願寺は、堂舎の災害(地震と火事)と復興、阿弥陀堂(限西山別院本堂)の再建、祖廟の大谷本廟移転という、めまぐるしい変転時代だったのですが、これをなしとげたのが講社の愛山護法の懇念だったのです。

第12代宗主 准如上人

第12代宗主 准如上人
(1577~1630)
顕如宗主の三男。兄に代わり十七歳で法統を継承された。地方別院や大谷本廟を整備し、近世本願寺の基盤を築かれた。慶長の地震や元和の火災によって焼失した本願寺諸堂の復興に取り組み、『浄土文類聚鈔』を開版された。五十四歳でご示寂。

良如上人と講社

良如上人時代(1630~1661)の本願寺は、御影堂の再興(1636)、大修復、大谷本廟の整備など、近世本願寺の基礎が固められた時代ですが、御真影さまをご安置する御影堂、宗祖の御廟所の大谷本廟という、愛山護法の中心となるべき基礎はまた、当時の講社先人の懇念によって成し遂げられたのです。

第13代宗主 良如上人

第13代宗主 良如上人
(1612~1662)
准如宗主の子。十九歳で継職され、寛永十三(一六三六)年に現在の御影堂を再建された。ついで学寮を創設して能化職を置くなど宗学研鑚の振興を図り、また大谷本廟の修復や整備に着手し、近世教団の体制を整えられた。五十一歳でご示寂。

寂如上人と講社

寂如上人時代(1662~1724)の本願寺は、大谷廟堂(明著堂)、拝堂、本山の経蔵、阿弥陀堂門、集会所等、祖山・祖廟の整備がなされました。寂如上人は12歳より75歳まで治山63年間、講社活動にたいへん力を入れられ、後に述べるように、寂如上人時代に、講社はその全貌をあらわし、その後の本願寺の隆盛を不動のものにし、その後の度重なる宗門の難題は、講社によって、解決されていったのであります。

第14代宗主 寂如上人

第14代宗主 寂如上人
(1651~1725)
良如宗主の子。十二歳で継職され、七十五歳で示寂されるまで治山六十三年であった。歴代宗主の影像を改訂、「正信偈和讃」や『御文章』の開版と聖教統一、勤式作法の改正、学林の再興に取り組まれるなどご事績は多い。

法如上人と講社

法如上人時代(1741~1788)の本願寺は、なんといっても、宝暦十年(1760)の阿弥陀堂の再建です。
宗門では先年(1985)阿弥陀堂の屋根大修復を二十数億の巨費を投じて行いましたが、今も語りつがれているように宝暦の阿弥陀堂の屋根瓦はすべて摂津十二日講の寄進でなされたのです。

また、各別院(吉崎、金沢、福井、山科、近松、築地)の再建や復興、『真宗法要』の開版、摂津十三日講や十二日講の『教行信証』や『六要鈔』などの古版購入や刊行、これらに代表されるように、祖山、祖廟の護持、お聖教の普及は講社の愛山護法がいかなるものであったかが如実に語られています。

第17代宗主 法如上人

第17代宗主 法如上人
(1707~1789)
良如宗主の子である本徳寺寂円の二男。三十七歳で継職された。宝暦十(一七六〇)年に現在の阿弥陀堂を再建し、明和二年に『真宗法要』を刊行して教学の振興を図り、明和の法論や宗名論争などの対応に尽力された。八十三歳でご示寂。

本如上人と講社

本如上人時代(1799~1825)の本願寺は、宗門史上、未曽有の三業惑乱時代で、宗門内が二分され、以後、今日に至るまで、いまだに、その後遺症が残っている動乱時代でありました。講社も、その影響をもろに受けましたが、そのような困難にも負けず、本如上人が厳修された、宗祖親鸞聖人五百五十回大遠忌法要(1811)円成のため、御影堂の屋根瓦をはじめとする大修復は講社が中心となってなしとげました。以後、今日に至るまで、180年間、御影堂は護持されてきましたが、いよいよ平成23年には宗祖親鸞聖人の七百五十回大遠忌法要が厳修されますが、われわれは、本如上人時代の講社先人の愛山護法の心に思いをいたし、法要円成に向かって報謝のまことを尽くしたいものであります。

第19代宗主 本如上人

第19代宗主 本如上人
(1778~1826)
文如宗主の子。二十二歳で継職された。最大の法論であった三業惑乱の解決に尽力し、文化三(一八〇六)年に『御裁断御書』等の消息を発布して教義上の統制を図り、門信徒を教導された。また興正寺独立問題も解決され、四十九歳でご示寂。

広如上人と講社

広如上人時代(1826~1870)の本願寺は幕末から明治にかけての日本歴史上の一大変革期でした。特に明治維新への宗門の多事多難な中に、講社の活躍は目にみはるものがあり、種々の逸話が残されておりますが、このように江戸300年間にわたる講社先人の愛山護法の軌跡は、「本願寺は講社でもっていた」という伝聞が決して、オーバーではないことがおわかりいただけたと存じます。

世界史にその例を見ない江戸時代に、歴代ご門主さまのもと、講社先人の歴史は、そのまま蓮如上人の、講社は仏法興隆の根元、往生浄土の支度なりを成就してくださった尊くも、謝しても謝しがたき、念仏者の生き方を示してくださってる菩薩行の歴史でありましょう。

第20代宗主 広如上人

第20代宗主 広如上人
(1798~1871)
文如宗主の子である顕証寺暉宣の二男。二十九歳で継職されると、本願寺の財政再建や機構改革などに取り組まれた。幕末の動乱期にあって、反幕府の姿勢を取られるなど、教団の方向を決定する重要な時期に尽力された。七十四歳でご示寂。

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